From ニューヨーク  「熱く生きる」
渡米以来の奮闘記「熱く生きる」と徒然エッセイ
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連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その9:商いのメッカ)
 時は九〇年後期。
 日本はバブル経済崩壊の真最中。私にとっても他人事ではなかった。帰国後の事業資金の調達は不動産をたよりにしていた(既存のローン枠以外の借り入れ)からである。数ヶ月前に会計士が「必ず持ち直す」と断言していた不動産価格は下がる一方。離婚直後もすでに下がってはいたが七千万円前後ではあったので、あまり気にはしていなかったのだが、この時期六千万円を割っており、市場は暗さが増すばかり。誰も持ち直すなどとは思わなくなっていただろう。
 そのようなしだいで、「その内、なんとかする」などとのんきなことを言っていられなくなったのは、九一年が明けたころである。
 経営者に返り咲くべく、事業のネタを探しをはじめた。が、ロスにはこれといったものがなく、「商いのメッカへ行くべきだ」という結論に達した。商いのメッカとは、他でもない東海岸への旅で最終日に訪れたニューヨークである。さっそく、下調べのため、ニューヨークへ飛んだ。
 この下調べには、寛と別れた後しばらく間をおき、つき合いはじめたテューヤンも同行した。かれはトルコからの留学生で、渡米目的は国で修めた数学の道を極めるためだとか。このような世界からの知的人口の流入もまた、この国を強国たらしめる財源となっているといえるだろう。
 ニューヨークでは交通の便のよいミッドタウンのホテルを宿にし、住まいや学校の下調べをはじめた。―――その矢先である。ロスのテューヤンの同胞から緊急連絡が入り、トルコのテューヤンの実家に召集令状が届いたとのこと。湾岸戦争のあおりである。やむなくロスに引き返し、テューヤンは追っつけトルコへと立った。
 肝心の移動計画はというと、出鼻をくじかれた観なので、少々先へ延ばすことにした。
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その8:大馬鹿者)
 この間、薮用で日本へも二度ほど飛び、十二月に入ってからはスキー三昧。チー・チェンにも言われたように金もどんどん減っていった。
 こうした野放図生活の資金となっていたのは、別れた夫から会社を退いた代償に受け取った現金と不動産によるもので、現金は約一千万円。不動産によるものというのは、離婚直後に取引銀行に頼まれて設けたマンションを担保にしたローン枠からの引き出し(なんらかの事業を興すつもりではおり、それで埋めようと思っていた)で、おなじく一千万円ほど。そのほかに口座の管理をしてくれていた寛の立て替えが数百万円あり、最終的には総計二千五百万円ほどが一年余りで消えてしまったことになる。大馬鹿者というしかない。
 離婚の原因にも触れておくと、私の元上司、つまり別れた夫は仕事のできる優秀な営業マンではあるものの、経営者には向いていない丼勘定型。大きな契約を前にすると取らぬタヌキと化すのが常。浪費にかんしては人のことをいえたぎりではないが、それもまた従来の私というわけではなく、会社の経理は全面的に私が握っていた。前置きが長くなってしまったが、「先がおもいやられる」ということで、二十代の最後の年に心を決した。私の抜けたあとの会社がどうなったかを補足しておくと、一年ほどであっけなく倒産している。私の元上司も大馬鹿者としうしかない。
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その7:目は死んだまま)
 旅の話を進めることにしよう。
 一行の最初のスケジュールはロウエル市(ボストンの北西約五〇キロ)の弁護士会との交流だった。私は前の晩の酒宴で飲みすぎてしまい寝坊。かれらもそうとう飲んでいたはずだが、酒飲みのおおい法曹人、肝臓の鍛え方がちがうようである。団長だか、副団長だかに「おきてるか?!いくぞ〜!」と電話でたたき起こされたものの、昨夜のアルコールがぜんぜんぬけていない。
 「すぐに追いかけるので、先にいってください」
 「一人で来れるか?」
 「だいじょうぶです」
 シャワーをがんがんに浴び、二日酔いの頭をがんがんさせながら、レンタカーをがんがん走らせた。
 かれらから遅れること約一時間。市庁舎では歓迎式が催され、一行は丁重なもてなしをうけていた。歓迎式のあとは、同市の博物館や名所を案内され、英国調のシックな街並みを遊歩した。ボストンをふくむ東部の六州(コネチカット、ニューハンプシャー、マサチューセッツ、バーモンド、メイン、ロードアイランド)は十七世紀に英国の占有地であったため、英国調のたたずまいがところどころでみかけられる。
 つぎの訪問地は、ワシントンD.C.。
 ここD.C.では実際の法廷に傍聴人として参加したのだが、私をふくむ団員のほとんどはいくつかの単語を聴きとるのが関の山。帰国後、弁護士村のかれらの間で英会話が流行ったらしい。
 五日ほどの視察も終了し、帰国の前々日は自由行動となっていた。各自の行き先もそれぞれで、私と寛はほかにふたりほどさそい、ワシントンD.C.からだと飛行機で一時間弱の距離にあるニューヨークを選んだ。
 ラガーディア空港に到着したのは3時前後だったように思う。空港付近の宿でチェックインをすませると、さっそくレンタカーでマンハッタンへと向かった。
 私にとっては初めてのニューヨークだが、途中までは迷うことなく行けた。が、マンハッタン島に渡るクイーンズ・ボロウ・ブリッジへのアクセスには迷ってしまい、
 「マンハッタンに行きたいんですけど、橋はどっからのるんですか?」
 通行人に、そう訊ねてみたのだが、
 「え、どこへ行きたいって?」
 「マンハッタンです。マンハッタン」
 「え?」
 「マンハッタン」
 「え?」
 マンハッタンの発音がどのようにいい直しても通じないのには困ってしまった。実はこれがのちに長く住むことになり日常用語として欠かせない「マンハッタン」の発音レッスンにもなったといえるのだが、間に入っている「タ」をぬき、「ハッ」の部分を吹きつけるようにして「マンハッン」にしなくてはならないのである。米語のばあい、あいだに「T」をふくむ単語は、そのようにあいまいに発音されるものがおおく、発音の苦手な日本人は難儀する。
 四人を乗せた車がマンハッタン島に上陸したころには日もどっぷり暮れていた。腹ごしらえは、ボストンで予約を入れておいたロックフェラー・センターの「レインボウルーム」。六五階にあるこのレストランの眺望は定評がある。だが、料理はイマイチというしかない。あの男性用の草履サイズの、それもゴム草履のように硬いアメリカンステーキにしたのがまちがいだったのかもしれないが、
 「肉食の国なのに、なんとかならないものかな〜」
 不満タラタラで米国産の岩肉をくだいた。現在では狂牛病の心配もあるというのだから話にもならないし、それで「買え!」とせまるなど、まるっきしヤクザ。一国の政府がやる事とは思えない。
 不満タラタラで岩肉を砕いたあとは、お定まりのコースでブロードウェイのミュージカルを観にいった。だが、行きあたりばったりで入った劇場での演劇は題名を覚える気にもならないほどおもしろくない。あくびの連続で、これまた失敗。この頃にもなると旅の疲れもある。
 「どうします?」
 「最後まで観るのはきついな〜」
 ホテルへひきかえした。
 翌日は、映画「キング・コング」で知られるエンパイア・ステイト・ビルディングに登り、そのあとは時間制限があるため、ヘリでの上空観光。が、かの摩天楼を空から見下ろしても、自由の女神を真近にみても、空しい飽食の日々を送る私の目は死んだままだった―――。 
 自由行動日の翌朝、一団はワシントンD.C.で帰国の途に着こうとしていた。
 「帰国してほしいと言ったところで、それはないだろうな・・・・」
 出立を前に寛がそういったが、私の答えは寛も察しているように、
 「今のところ考えられへん」
 精神がいちじるしく病んだままにあるため、現実の待ちうけている日本に帰るなど、考えることすらためらわれた。それだけの理由ではないのだが、結局、寛とはこの東海岸の旅で終わった。
 バスに乗りこむ一団のひとり、ひとりにドライフラワーのバラを一輪づつ手渡し、お礼をいった。彼らを乗せたバスが見えなくなると、心にぽっかりと大きな穴が開いたような気がした。
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その6:陪審員制度)
 十一月。
 寛がふたたび渡米することになった。今回は大阪弁護士会主催による陪審制度(一般市民が裁判の審理に参与)の視察員としての渡米で、訪問先は東海岸とのこと。仕事がらみだが、参加者には寛や伸男さんと懇意な弁護士もおおいという。
 「なら、私も行こうかな」
 合流することにし、ボストンに飛んだ。
 主題はお堅い感じだが、そうかしこまった雰囲気でもなく ほどよい緊張感でふやけた私も少しは気が引きしまる気分だった。夜の行事も主題についての議論。といっても、酒盃をかわしながらのもので、夜更けまで熱っぽく意見が交わされていた。
 こうした彼らのはたらきもあってということになるのだろうが、日本でも〇九年の五月までに「裁判員制度」として復活(二三年に陪審法で定められたものの、四三年に施行を停止)することになっている。「国民の司法参加」というコンセプトはすばらしいとおもうし、現行の裁判制度にも多々問題があることも否定はできないので、画期的な改革だとはおもう。しかし、つぎのような米国における陪審制の実情を知るかぎりにおいては、まゆを寄せざるをえない、というのが私の率直な感想だ。
 まず、法知識の「ホ」の字もないド素人の手に審理を委ねるというこの制度、誤判には死刑判決がおおいというのだから閉口せざるをえない。そのような技術的な問題のほか、陪審員に抽出されてしまった市民に出廷の手間をうとましがられたり、あるいは不服感のつよい判決が下されたばあいなど、それを下した陪審員らが脅迫されることもあるなど、じつは問題だらけなのである。
 アメリカ人がいうに廃止にならない理由の一つは、資本主義の本山にあっては裁判官の買収もめずらしくないからであるらしい。ようするに、一人の裁判官を買収することはできても、無作為に抽出された十二人の陪審員の過半数以上を買収することはむずかしいということである。
 日本で復活することになっているものは、フランスやドイツなどの参審制(職業裁判官と素人の合議形式)も取り混ぜにしたようなものにはなっているようではある。いずれにせよ、人命がかかっていることであり、実施されるまでの間にさらなる議論や調査をかさね、世界の模範となるような制度がうみだされることを期待したい。
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その5:メキシコへの旅)
 湾岸戦争勃発の翌月、そのころにつき合っていた寛が日本からやって来た。
 寛は私が辞した会社の顧問弁護士、伸男さんの大学の同期でもあれば、同業者でもある。さきの準備帰国のおり、伸男さんの事務所ではじめて顔をあわせ、夕方だったこともあり、三人で北新地にくりだし、酒の席で意気投合。
 寛とは、それまでに出かける機会がなかったメキシコへ行ってみることにした。
 海岸線沿いのルート5を潮風に吹かれながらひたすら南へ向かうと、南国ムードたっぷりのサンディエゴに入る。日帰りのいそぎ足の旅ということもあり、そのトロピカルなサンディエゴを素通りし、南下をつづけた。
 それからどれくらい走ったか定かではないが、車窓を流れる景色がしだいに殺伐としたものへと変化していった。
 「なんか、様子が変ったな」
 「そうやな」
 そんなことをいっているところにショッキングなものが目に飛び込んできた。忘れもしない、親子三人が手をつなぎフリーウエーを横切る姿が描かれ「CAUTION(注意)!」と書かれた交通標識である。描かれているのは不法越境者というわけだ。動物のそれは知っているが、人間がその図柄になるとは―――。二人とも言葉を失った。
 寛がおもたい沈黙をやぶるように、
 「たまらんな・・・・」
 ぽつりとそう言ったが、会話には繋がらず、言葉を失ったまま荒蕪の砂上に横たわるフリーウェイを機械的に走りつづけた。―――はげしくふきつける海風、無表情に往来する車の波、その殺伐とした光景の中でくるおしく舞う砂埃が一層に無情感をつのらせた。
 国境では車を駐車場にあずけ、歩いてメキシコ側にわたることにした。そこには入国審査の建物などない。動物園や遊園地の出口にあるような鉄格子の回転ドアが寒々と設置されているだけであり、周辺には金網のフェンスがものものしく張りめぐらされている。現在のことはわからないが、私が訪れた九〇年の時点ではそうだった。交通標識のショックも覚めやらないまま、寒々とした回転ドアを体でぐいっと押し、メキシコに入国した。
 メキシコ側の国境の街はティファナである。観光客で賑わいはあるが、貧困を見ずにはいられない街だ。悪臭が鼻を突いた。ますます気がめいったが、せっかくの休暇で来ている寛に悪いので気を取り直すようにつとめ、ティファナでのひと時を過ごした。ビール通の寛はメキシコビールで喉を潤していたが、私は飲む気にはなれなかった。
 アメリカにもどるにあたっては、入国審査の建物付近に群がる乳飲み子を抱きかかえた女性たちの姿にまたもや声を失った。物乞いをしている者ばかりではない。地べたに敷いた布にところせましと土産物をのせ売っている者も大勢いる。
 南北問題の一端を見せつけられた南への旅であり、富める側で飽食の日々を送る自分の愚かさを思った。しかし、国境を越えると、また元の愚かな自分にもどっていた―――。
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