From ニューヨーク  「熱く生きる」
渡米以来の奮闘記「熱く生きる」と徒然エッセイ
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その10:貧乏神との遭遇)
 それは貧乏神との遭遇だった。
 人懐こいグラディスが、
 「この前ね、ウィルシャーでの宴会に来ていたお客さんと親しくなったんだけど、こんど連れて行っていい?」
 と、きく。グラディスはマッチ・メーカーのつもりだったのかもしれないが、私はそういうのは苦手ときている。が、相変わらず暇はもてあましていたので了解し、数日後にグラディスがその男を連れてきた。男の名はスタティスといい、ギリシャからアメリカに渡って十年ばかりになるとか。国ではプロのレーサーだったらしく、その片手間にモデルもしていたそうだ。
 「けど、今ではしがないレストランのマネージャーさ」
 と、自分でも卑下しているのだが、やつれているというか、疲れているというか、過去の栄光もかなり疑わしく、のちに写真を見せてもらいようやく嘘の経歴ではないことを確認したほど。この男の転落は、高速道路を走っていた時、突如スピードの誘惑に襲われ、暴走してしまった事に端を発するらしい。パトカーが追うには追ったらしいが、なにせ相手はプロのレーサーときている。パトでは手に負えず、ヘリの機動でようやくお縄になったそうだ。これにより資格は没収。以来、モデルの方もジリ貧になったらしい。
 グラディスのマッチ・メーキングが成立しなかったことはいうまでもないのだが、私には来るものはこばまずといったところがあり、軽いつきあいはあった。この落ちぶれ男が、ある時、突然、
 「昨日さ、ビビッとくるものがあったんだ。オレ、ニューヨークにもどることにする」
 都落ちの逆バージョンということになるが、一から出直してレーサーに復帰するという。しかも、「今度はF1を狙う!」という気負いよう。
 私にとっては先送りのままになっているニューヨークである。それを聞いた時は私もビビッとくるものがあった。このころの私の状況は口座の残高が底をつく寸前。そればかりか、すこし前までは売却すればそれなりの金額が残るといった状態だった不動産が、ここに来て売却を急がねば借金を抱えてしまう状態へと急変し、窮地に追い込まれていた。ロスにいても先が見えてもいる。
 (落ちぶれ男に便乗するのはどうか?)
 とはおもったが、
 (今、腰を上げなければ、ニューヨークへの移動はないままに先の見えているロスで終わるかもしれない)
 とも思え、おもいきって便乗を決めた。
 スタティスは、「善は急げだ!」といい、すぐに発つことにもなっており、便乗を決めた私も家具類を引越屋にあずけたり、車を売ったりであわただしかった。あまりのあわただしさに、良友、チー・チェンがこの便乗に対してなんと言ったすらも覚えていないのだが、愛着のあった熱帯魚(誕生日にプレゼントしてもらい半年ほど飼った)とベンジャミン(旅行中に水をやれなかったために褐色の枝状態になってしまったものの甦生した)の里子を引き受けてくれたのは覚えている。  
 出立の日は、兵役を終えたフィリップの帰宅と重なり、これまたあわただしかった。私がかれらの自宅で「ウエルカム・ホーム・パーティ」の準備を済ませたところに、身には星条旗のシャツをまとい、手にはお帰りなさいの風船をもったグラディスが、軍服姿のフィリップとロングビーチの米軍基地から帰ってきた。フィリップに寄り添うグラディスの嬉しそうな顔はやすらぎにもみちていた。
 そのグラディスとの出逢いで始まり、別れで終わったロスの一年である。時は九一年の初夏だった。
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その9:商いのメッカ)
 時は九〇年後期。
 日本はバブル経済崩壊の真最中。私にとっても他人事ではなかった。帰国後の事業資金の調達は不動産をたよりにしていた(既存のローン枠以外の借り入れ)からである。数ヶ月前に会計士が「必ず持ち直す」と断言していた不動産価格は下がる一方。離婚直後もすでに下がってはいたが七千万円前後ではあったので、あまり気にはしていなかったのだが、この時期六千万円を割っており、市場は暗さが増すばかり。誰も持ち直すなどとは思わなくなっていただろう。
 そのようなしだいで、「その内、なんとかする」などとのんきなことを言っていられなくなったのは、九一年が明けたころである。
 経営者に返り咲くべく、事業のネタを探しをはじめた。が、ロスにはこれといったものがなく、「商いのメッカへ行くべきだ」という結論に達した。商いのメッカとは、他でもない東海岸への旅で最終日に訪れたニューヨークである。さっそく、下調べのため、ニューヨークへ飛んだ。
 この下調べには、寛と別れた後しばらく間をおき、つき合いはじめたテューヤンも同行した。かれはトルコからの留学生で、渡米目的は国で修めた数学の道を極めるためだとか。このような世界からの知的人口の流入もまた、この国を強国たらしめる財源となっているといえるだろう。
 ニューヨークでは交通の便のよいミッドタウンのホテルを宿にし、住まいや学校の下調べをはじめた。―――その矢先である。ロスのテューヤンの同胞から緊急連絡が入り、トルコのテューヤンの実家に召集令状が届いたとのこと。湾岸戦争のあおりである。やむなくロスに引き返し、テューヤンは追っつけトルコへと立った。
 肝心の移動計画はというと、出鼻をくじかれた観なので、少々先へ延ばすことにした。
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その8:大馬鹿者)
 この間、薮用で日本へも二度ほど飛び、十二月に入ってからはスキー三昧。チー・チェンにも言われたように金もどんどん減っていった。
 こうした野放図生活の資金となっていたのは、別れた夫から会社を退いた代償に受け取った現金と不動産によるもので、現金は約一千万円。不動産によるものというのは、離婚直後に取引銀行に頼まれて設けたマンションを担保にしたローン枠からの引き出し(なんらかの事業を興すつもりではおり、それで埋めようと思っていた)で、おなじく一千万円ほど。そのほかに口座の管理をしてくれていた寛の立て替えが数百万円あり、最終的には総計二千五百万円ほどが一年余りで消えてしまったことになる。大馬鹿者というしかない。
 離婚の原因にも触れておくと、私の元上司、つまり別れた夫は仕事のできる優秀な営業マンではあるものの、経営者には向いていない丼勘定型。大きな契約を前にすると取らぬタヌキと化すのが常。浪費にかんしては人のことをいえたぎりではないが、それもまた従来の私というわけではなく、会社の経理は全面的に私が握っていた。前置きが長くなってしまったが、「先がおもいやられる」ということで、二十代の最後の年に心を決した。私の抜けたあとの会社がどうなったかを補足しておくと、一年ほどであっけなく倒産している。私の元上司も大馬鹿者としうしかない。
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その7:目は死んだまま)
 旅の話を進めることにしよう。
 一行の最初のスケジュールはロウエル市(ボストンの北西約五〇キロ)の弁護士会との交流だった。私は前の晩の酒宴で飲みすぎてしまい寝坊。かれらもそうとう飲んでいたはずだが、酒飲みのおおい法曹人、肝臓の鍛え方がちがうようである。団長だか、副団長だかに「おきてるか?!いくぞ〜!」と電話でたたき起こされたものの、昨夜のアルコールがぜんぜんぬけていない。
 「すぐに追いかけるので、先にいってください」
 「一人で来れるか?」
 「だいじょうぶです」
 シャワーをがんがんに浴び、二日酔いの頭をがんがんさせながら、レンタカーをがんがん走らせた。
 かれらから遅れること約一時間。市庁舎では歓迎式が催され、一行は丁重なもてなしをうけていた。歓迎式のあとは、同市の博物館や名所を案内され、英国調のシックな街並みを遊歩した。ボストンをふくむ東部の六州(コネチカット、ニューハンプシャー、マサチューセッツ、バーモンド、メイン、ロードアイランド)は十七世紀に英国の占有地であったため、英国調のたたずまいがところどころでみかけられる。
 つぎの訪問地は、ワシントンD.C.。
 ここD.C.では実際の法廷に傍聴人として参加したのだが、私をふくむ団員のほとんどはいくつかの単語を聴きとるのが関の山。帰国後、弁護士村のかれらの間で英会話が流行ったらしい。
 五日ほどの視察も終了し、帰国の前々日は自由行動となっていた。各自の行き先もそれぞれで、私と寛はほかにふたりほどさそい、ワシントンD.C.からだと飛行機で一時間弱の距離にあるニューヨークを選んだ。
 ラガーディア空港に到着したのは3時前後だったように思う。空港付近の宿でチェックインをすませると、さっそくレンタカーでマンハッタンへと向かった。
 私にとっては初めてのニューヨークだが、途中までは迷うことなく行けた。が、マンハッタン島に渡るクイーンズ・ボロウ・ブリッジへのアクセスには迷ってしまい、
 「マンハッタンに行きたいんですけど、橋はどっからのるんですか?」
 通行人に、そう訊ねてみたのだが、
 「え、どこへ行きたいって?」
 「マンハッタンです。マンハッタン」
 「え?」
 「マンハッタン」
 「え?」
 マンハッタンの発音がどのようにいい直しても通じないのには困ってしまった。実はこれがのちに長く住むことになり日常用語として欠かせない「マンハッタン」の発音レッスンにもなったといえるのだが、間に入っている「タ」をぬき、「ハッ」の部分を吹きつけるようにして「マンハッン」にしなくてはならないのである。米語のばあい、あいだに「T」をふくむ単語は、そのようにあいまいに発音されるものがおおく、発音の苦手な日本人は難儀する。
 四人を乗せた車がマンハッタン島に上陸したころには日もどっぷり暮れていた。腹ごしらえは、ボストンで予約を入れておいたロックフェラー・センターの「レインボウルーム」。六五階にあるこのレストランの眺望は定評がある。だが、料理はイマイチというしかない。あの男性用の草履サイズの、それもゴム草履のように硬いアメリカンステーキにしたのがまちがいだったのかもしれないが、
 「肉食の国なのに、なんとかならないものかな〜」
 不満タラタラで米国産の岩肉をくだいた。現在では狂牛病の心配もあるというのだから話にもならないし、それで「買え!」とせまるなど、まるっきしヤクザ。一国の政府がやる事とは思えない。
 不満タラタラで岩肉を砕いたあとは、お定まりのコースでブロードウェイのミュージカルを観にいった。だが、行きあたりばったりで入った劇場での演劇は題名を覚える気にもならないほどおもしろくない。あくびの連続で、これまた失敗。この頃にもなると旅の疲れもある。
 「どうします?」
 「最後まで観るのはきついな〜」
 ホテルへひきかえした。
 翌日は、映画「キング・コング」で知られるエンパイア・ステイト・ビルディングに登り、そのあとは時間制限があるため、ヘリでの上空観光。が、かの摩天楼を空から見下ろしても、自由の女神を真近にみても、空しい飽食の日々を送る私の目は死んだままだった―――。 
 自由行動日の翌朝、一団はワシントンD.C.で帰国の途に着こうとしていた。
 「帰国してほしいと言ったところで、それはないだろうな・・・・」
 出立を前に寛がそういったが、私の答えは寛も察しているように、
 「今のところ考えられへん」
 精神がいちじるしく病んだままにあるため、現実の待ちうけている日本に帰るなど、考えることすらためらわれた。それだけの理由ではないのだが、結局、寛とはこの東海岸の旅で終わった。
 バスに乗りこむ一団のひとり、ひとりにドライフラワーのバラを一輪づつ手渡し、お礼をいった。彼らを乗せたバスが見えなくなると、心にぽっかりと大きな穴が開いたような気がした。
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その6:陪審員制度)
 十一月。
 寛がふたたび渡米することになった。今回は大阪弁護士会主催による陪審制度(一般市民が裁判の審理に参与)の視察員としての渡米で、訪問先は東海岸とのこと。仕事がらみだが、参加者には寛や伸男さんと懇意な弁護士もおおいという。
 「なら、私も行こうかな」
 合流することにし、ボストンに飛んだ。
 主題はお堅い感じだが、そうかしこまった雰囲気でもなく ほどよい緊張感でふやけた私も少しは気が引きしまる気分だった。夜の行事も主題についての議論。といっても、酒盃をかわしながらのもので、夜更けまで熱っぽく意見が交わされていた。
 こうした彼らのはたらきもあってということになるのだろうが、日本でも〇九年の五月までに「裁判員制度」として復活(二三年に陪審法で定められたものの、四三年に施行を停止)することになっている。「国民の司法参加」というコンセプトはすばらしいとおもうし、現行の裁判制度にも多々問題があることも否定はできないので、画期的な改革だとはおもう。しかし、つぎのような米国における陪審制の実情を知るかぎりにおいては、まゆを寄せざるをえない、というのが私の率直な感想だ。
 まず、法知識の「ホ」の字もないド素人の手に審理を委ねるというこの制度、誤判には死刑判決がおおいというのだから閉口せざるをえない。そのような技術的な問題のほか、陪審員に抽出されてしまった市民に出廷の手間をうとましがられたり、あるいは不服感のつよい判決が下されたばあいなど、それを下した陪審員らが脅迫されることもあるなど、じつは問題だらけなのである。
 アメリカ人がいうに廃止にならない理由の一つは、資本主義の本山にあっては裁判官の買収もめずらしくないからであるらしい。ようするに、一人の裁判官を買収することはできても、無作為に抽出された十二人の陪審員の過半数以上を買収することはむずかしいということである。
 日本で復活することになっているものは、フランスやドイツなどの参審制(職業裁判官と素人の合議形式)も取り混ぜにしたようなものにはなっているようではある。いずれにせよ、人命がかかっていることであり、実施されるまでの間にさらなる議論や調査をかさね、世界の模範となるような制度がうみだされることを期待したい。
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その5:メキシコへの旅)
 湾岸戦争勃発の翌月、そのころにつき合っていた寛が日本からやって来た。
 寛は私が辞した会社の顧問弁護士、伸男さんの大学の同期でもあれば、同業者でもある。さきの準備帰国のおり、伸男さんの事務所ではじめて顔をあわせ、夕方だったこともあり、三人で北新地にくりだし、酒の席で意気投合。
 寛とは、それまでに出かける機会がなかったメキシコへ行ってみることにした。
 海岸線沿いのルート5を潮風に吹かれながらひたすら南へ向かうと、南国ムードたっぷりのサンディエゴに入る。日帰りのいそぎ足の旅ということもあり、そのトロピカルなサンディエゴを素通りし、南下をつづけた。
 それからどれくらい走ったか定かではないが、車窓を流れる景色がしだいに殺伐としたものへと変化していった。
 「なんか、様子が変ったな」
 「そうやな」
 そんなことをいっているところにショッキングなものが目に飛び込んできた。忘れもしない、親子三人が手をつなぎフリーウエーを横切る姿が描かれ「CAUTION(注意)!」と書かれた交通標識である。描かれているのは不法越境者というわけだ。動物のそれは知っているが、人間がその図柄になるとは―――。二人とも言葉を失った。
 寛がおもたい沈黙をやぶるように、
 「たまらんな・・・・」
 ぽつりとそう言ったが、会話には繋がらず、言葉を失ったまま荒蕪の砂上に横たわるフリーウェイを機械的に走りつづけた。―――はげしくふきつける海風、無表情に往来する車の波、その殺伐とした光景の中でくるおしく舞う砂埃が一層に無情感をつのらせた。
 国境では車を駐車場にあずけ、歩いてメキシコ側にわたることにした。そこには入国審査の建物などない。動物園や遊園地の出口にあるような鉄格子の回転ドアが寒々と設置されているだけであり、周辺には金網のフェンスがものものしく張りめぐらされている。現在のことはわからないが、私が訪れた九〇年の時点ではそうだった。交通標識のショックも覚めやらないまま、寒々とした回転ドアを体でぐいっと押し、メキシコに入国した。
 メキシコ側の国境の街はティファナである。観光客で賑わいはあるが、貧困を見ずにはいられない街だ。悪臭が鼻を突いた。ますます気がめいったが、せっかくの休暇で来ている寛に悪いので気を取り直すようにつとめ、ティファナでのひと時を過ごした。ビール通の寛はメキシコビールで喉を潤していたが、私は飲む気にはなれなかった。
 アメリカにもどるにあたっては、入国審査の建物付近に群がる乳飲み子を抱きかかえた女性たちの姿にまたもや声を失った。物乞いをしている者ばかりではない。地べたに敷いた布にところせましと土産物をのせ売っている者も大勢いる。
 南北問題の一端を見せつけられた南への旅であり、富める側で飽食の日々を送る自分の愚かさを思った。しかし、国境を越えると、また元の愚かな自分にもどっていた―――。
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その4:湾岸戦争勃発)
 ロスでの生活にもだいぶん慣れた八月、湾岸戦争が勃発した。
 当事国に居住しているため緊迫を肌で感じることになったわけだが、フィリップが戦場にむかうことになり、さらに身近な有事となった。ちまたでは三日で終わるともささやかれていたものの、泥沼化により長期戦となったベトナム戦争でのにがい経験もある。当事者やその家族にしてみれば心穏やかではない。
 「フィリップにもしものことがあったらどうしよう・・・・」
 グラディスの動揺はいうまでもないし、フィリップのご両親もアリゾナから飛ぶようにして駆けつけて来られた。例のフイリップが純アメリカ人として育てられたワケは、この時に聞いた。
 ご両親が飛んでこられた翌々日、みなでフィリップをロングビーチの米軍基地まで送っていった。この基地は大型には入らないらしいが、軍事超大国をみせつけられる規模にはかわりなく、だだっ広い敷地内で迷ったりもした。
 迷いもってたどりついた指定の場所では兵士や家族らでごったがえしていた。それぞれの胸中にあるものは別ではあろうが、はりつめた空気ではなかった。とはいえ、不安を共有する一体感のようなものはひしと感じた。好きこのんで戦場に向かう者、そして送りだす者などいようはずもない。
 であるなら尚のこと、命を賭して実弾となる彼らこそ、そろろそ戦争の裏舞台に目を向けるべきだろう。人類が戦争という野蛮から脱却しえない最たる因は、風が吹けば桶屋がもうかるの法則によるもので、それによって潤う者たちがいるからだ。現に軍需産業こと戦争産業も存在すれば、その戦争産業、軍、政治のトライアングル体制をさす「軍産複合体」という言葉も存在する。連中にとっての戦争は「事業」に他ならず、この時の父親、ジョージ・ブッシュの中途半端な事業を、それから十二年後の〇三年三月、息子、ジョージ・W・ブッシュ)が 「嘘(実際にはなかった大量破壊兵器)」と「プロパガンダ(民主主義を守るため、自由を守るため、そして世界平和の守るため、といったおなじみのあれ)」で、再開させたというわけである。その、連中の事業に、我が国の政府も手を貸しているのだ。
連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その3:底なし沼)
 時間もあるていど経過したことなので、某国へむかうためのビザ申請をするべきだった。が、しかし太陽燦々の街、ここロスが気に入り、ビザでケチのついたところへは足が向こうとしない。―――某国でまってくれている旧友にはもうしわけないが、予定を大幅に変更し、この街にとどまることにした。
 在留中はとりあえず英語の勉強でもすることにし、本格的に住む準備のためにひとまず日本に帰国した。
 ロスに居住するにあたっては、アメリカでの二人目の友人となった日本人観光ガイドのロッキーがアドバイザーになってくれ、心強いばかりか大助かりだった。学校もロッキーの薦めで、かれも以前に通ったらしいロスの北西十キロほどにあるCSUN(カリフォルニア州立ノースリッジ大学)に決め、同校に付属する留学生のためのESL(英語学習クラス)に籍を置くことにした。
 クラスは、アジア、中東、ヨーロッパ、中南米など、世界中からの留学生らでにぎわい、五輪さながら。その五輪クラスでも、すぐに友人ができた。大学院への進学と米国公認会計士の資格の取得を目指す台湾出身のチー・チェン。このアメリカでの三人目の友人はすこぶる紳士で、私の台湾に対するイメージを引きあげたほどである。裕福な家庭で育ったことにもよるのだろうが、発展途上国(または途上先進国)からの留学生はチー・チェンのように経済力に富む家庭の子弟がおおい。
 キャンパスでは日本人留学生もおおく見られたが、経済大国の日本ではいまや留学が高嶺の花ではなくなっていることもあり、ほとんどは標準的な水準の家庭の子弟。かれらがいうに、住居費の負担もある地方出身者の親にしてみれば、他府県へ出すのも、海外に出すのも出費面ではあまり差がないとか。
 住まいの方はなかなか気に入った物件がみつからず、ダウンタウンの高層ビル街の一角にあるコンドミニアムに落ち着いたのは、リトル東京の「ニューオータニ」で一つきほどホテル暮らしをしたのちのことである。借りた部屋は十四階。ナイトビュー付きのひろいリビングルームがかっこうの宴会場となり、友人らをまねいて酒を飲むのにいそがしかった。
 このころは、その後もつづいていた消沈による精神不安定を無聊がてつだい、はずかしくも買い物中毒を併せて患った。そんな私に、チー・チェンは会計士の卵らしく、また良友らしく、
 「金はいつかはなくなるもの。そんなに浪費をしてはいけない」
 と、再三いった。もちろん、自分自身、それは百も承知している。しかし、手塩にかけて育ててきた会社を退いたことは、消沈のみならず、今後の生計に対する不安でもあり、精神状態が極度に不安定になっていたのである。元来の問題直視型の性質は、太古の金属のように錆びつき、すべての現実から逃げていた。いってみれば、粘着力のすさまじい底なし沼に肩までどっぷりつかったような状態で、そこから這いあがりたいという意思もあれば、必死でもがいてもいるのだが、微動だにできなかったのである。―――来る夜も、来る夜も酒をあおり、リビングルームでころがるようにして寝た。

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連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その2:最初の友人)
 バンクーバーを飛びたってから約一時間半。機内の窓から灼熱の太陽と紺碧の海の街が見えた。着陸体制にはいった機体が旋回をはじめると、その街にぐんぐん近づいてゆき、まもなくロス・アンジェルス国際空港へと降りたった。―――そこはバンクーバーの憂鬱な天候とは一転。燦々とかがやく太陽の日ざしが重たい心をいくぶんなりとも軽くしてくれ、それまでのこわばった顔がほんのりと緩んだのを思い出す。
 ロスでの一件目の滞在先となったダウンタウンの「ホテル・ウィルシャー」では、さっそくアメリカでの最初の友人もできた。友人の名はグラディスといい、年は私より六つ、七つ下。館内のレストランで案内係をしていたグラディスとは、そのレストランがとりもつ縁になるのだが、自分がとばしたジョークで笑いころげるような陽気なラテン人(ペルー出身)でもあれば、やたらと人懐っこいグラディスときており、初対面のときから旧来の友であるかのよう。健康的な小麦色の肌に彫の深い顔立ち、といった典型的なラテン美人でもあるグラディスに旦那のフィリップが惚れこみ、結婚にいたったらしい。
 「かれのお父さんはアメリカ人だけど、お母さんは日本人なのよ」
 フィリップのことはグラディスからそう聞いており、母親が日本人であるならてっきりバイリンガルだろうと思いきや、会ってみると日本語は片言も話せない。意識にしてもまるっきしアメリカ人。
 そのワケは、ほかでもない――いまだ過去形にはなっていない――白人の有色人種へ対する差別と偏見である。これは、先で彼のご両親にお会いした際、お母さんの正子さんから聞いた。
 「だからね、英語の発音の支障にならないように日本語も教えなかったの」
 母親が母国語を自分の子どもに教えないなど、よほどな事情がなければ考えられないことだが、正子さんが子育てをされた時代における日本人に対する差別と偏見には、真珠湾攻撃をめぐる感情的な痕跡もあった模様。というのも、〇一年、世界を震撼させた、あの同時多発テロの時でさえ、戦後半世紀以上も経ているにもかかわらず「パールハーバー、再来!」といったコピーがメディアで氾濫し、日本人として不快きわまりない思いをしたからだ。ひとむかし前の日系人の苦難たるや―――。
 ここでさらに言い及びたいことがある。この国に核を投下されながらも、たらたらと恨み言をいうわけでもない日本人は、執念ぶかくない「紳士的な民族」ということにはなるだろう。しかし、その史上級の大量殺戮に対し、この国が加害者意識のかけらすらないことをもってすれば、馬鹿がつくほどの「無頓着な民族」ということにもなるだろう。

 ロスでの時間つぶしも、バンクーバーの時とおなじ観光だった。そもそも観光気分ではないのだが、せっかく西海岸に来たことでもあり、ラスベガスとサンフランシスコへも足をのばしてみた。
 ベガスへの旅を価値あるものにしてくれたのは、かのグランドキャニオンだった。その大渓谷に身をおくと、自然のおりなす荘厳と神秘の世界にひきこまれ、人界からの離脱を可能にしてくれる。
 (俗世のことなど、どれをとっても、しょせんはちっぽけで取るに足らないこと・・・・)
 そんなことを思った。
 一方サンフランシスコでは、空港でレンタカーを借り、まずはゴールデンゲート・ブリッジへとむかった。(橋をわたってすぐのところにある)展望台からの眺めはまさしく絶景。されど、その絶景に立ち、眼下にひろがる太平洋の海原が日本へつながっていることを思うと、さまざまなことが脳裡をめぐり、傷心の一人旅のわびしさが身にしみた。

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連載「熱く生きる」 一章 羅針盤のない船(その1:渡米)
 私の渡米は九〇年の初夏にさかのぼる。その先に待ちうける数多の波瀾を予期しえたなら、この旅がはじまっていたかは分からない―――。
 三十路を目前にひかえた同年の春、一年あまりの夫との別居のすえに破婚した。それだけならまだしも、この間約七年、心魂をかたむけてきた夫との共同経営の会社(強・弱電関連工事請負業)から退いたことで消沈しきっていた。―――数々の思い出がつまる大阪をしばらくはなれ、どこか遠くの街へいきたい心境だった。
 その旅は、はじまる前から波瀾の兆しがあったともいえる。もともと予定した行き先はアメリカではなく、中学時代の旧友が居住している某国だったのだが、在日某国領事館でビザの発給を拒否され変更を余儀なくされたのである。渡航歴の汚点も犯罪前科もない。思いあたる原因は、閉館間際の窓口で女性係員に申請書の受理をせまったがために恨みを買ったことのほかにはない。その日に申請書が受理されなかったばかりか、ビザ(長期滞在用)の取得に要する面接のさいも、私怨に燃えている様子の同女性係員から執拗な質問攻撃をうけたのでいやな予感がしていた。
 「ビザが出せない? どういうことですか?」
 「領事の判断による決定です」
 その女性係員の、冷淡で、そしてまた勝ち誇ったような一言だけで終わった。職権と治外法権の乱用がはなはだしい。しかし、当時の私には、その理不尽に立ちむかう気力はなかった。国名を明記したいところではあるけれど、多年を経た今、あらたな恨みを買い厄介なことになるのはご免こうむるので某国にとどめることにはしておくが。
 つっかえされたパスポートにはキャンセルの烙印まで押されており、そんな傷物のパスポートでは他の国への入国さえ危ぶまれるというしまつ。が、運よくというのもおかしな言い方だが、その直後、傷物になりはてたパスポートの入った鞄を紛失。旅券事務所にすっとんでゆき再発行の手続きをした。数日後に受け取ったパスポートはもちろん真っさらである。
 いうまでもなく、こんな目にあわされた国になど行く気も失せていた。けれど、某国にいる旧友は、
 「日本以外の国の(某国の)大使館か、領事館で観光ビザの申請をすれば問題ないはず。たとえば、アメリカとか」
 と、いう。(当節のようなオンライン社会ではなかったからいえたことでもあるが)十数年ぶりの私との再会も心待ちにしてくれている様子で、それは私にしてもおなじだ。その手をつかってみることにし、旅先での旅程の変更という設定に色をそえるため、一応カナダも経由することにもした。

 所はバンクーバー空港。
 入国審査の列にならび、順番がくると押し出されるように窓口へと進み出た。ところが次々と入管ゲートを通過してゆく他の列の乗客らを横目に、なぜかしら私は足どめを食い、別室に連れて行かれた。二度目のパンチを食らった気分で、
 (ビザでケチのついた旅は、飛行機に乗っただけで終わったか?)
 と、おもった。
 不審な点があろうはずもなければ、所持金や預金残高証明などにも不備はない。結局、入国することはできたものの、どうやらこれは再発行パスポートの所持者の宿命らしく、アメリカの入管でもおなじような目にあった。
 バンクーバーは定評どうり絵から抜けだしたような街だった。けれども、北緯五十度のその街には、六月だというのに、いまだ冬の余韻が残っていたうえ、天候にも恵まれず、どんよりと曇った灰色の空がおもたい心にのしかかるようで息苦しかった。
 滞在中の時間つぶしは観光。人気名所の一つらしいキャピラノ川の上およそ七十メートルに架かる吊り橋では、女性観光客ら橋がゆれるたびに黄色い声をあげていた。そんな彼女らは何の悩みもないかのようにみえ、うらやましく思えたものである。眺めがすばらしいとされるグラウス・マウンテンにも登ってみたが、あたり一面を覆った濃霧で何も見えず、まるで自分の置かれた状況をみているかのよう。
 このような息苦しいバンクーバーに、三、四日滞在したのち、次の旅程地、ロス・アンジェルスへと飛んだ。

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